viernes, 27 de febrero de 2009

Edición japonesa de Sputnik, mi amor



     『スプートニクの恋人』 村上春樹        99/05/11 00:29



 村上春樹『スプートニクの恋人』読了。

 村上春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、自身の作品の変遷
について、デタッチメント(関わりのなさ)・物語性の追求・コミットメント
(関わり)の3つの段階を経て来ているようだと言っている。
 つまり「個人」についての小説、「個人の物語」についての小説、「個人と
個人の関係性」についての小説と言うように変遷してきたと言うことなのだろ
う。変遷したものは、作品のテーマと言うより、多分、もっと本質的な(小説
を書く、そもそもの土台となるところの)世界観と言うことではないだろうか。

 『アンダーグラウンド』には、ここで言うコミットメントの「始まり」とし
ての意味があったように思うのだが、この『スプートニクの恋人』はコミット
メントへの小説としての出発を意味するのかも知れない(しかし、この問題に
関して、『国境の南、太陽の西』から始まっていたようにも思える)。
 人間の関係性と言うことについてどのように物語を展開させるのか、あるい
はこれまで書かれてきた個人としての掘り下げはどのように変化しているのか、
と言うのが読む前のさしあたっての興味となっていた。

 物語は若い女性、若い男性、大人の女性の3人を軸に書かれていく。語り手
は若い男性である。前半は若い女性のことを中心に語り、中盤から後半は若い
女性を喪失してしまった自身のことを語ると言うようになっていく。大人の女
性はその両者に微妙な距離を保ちつつも、若い男女はもちろん、物語そのもの
にも、深く関わっていく。

 『ねじまき鳥』にも失踪した妻を捜す、あるいは待つ夫の姿が描かれていた。
 それは妻の失踪と言う深い喪失を埋めるべく世界を動き回る、あるいは考え
続けるアクティブな夫としての姿だったようにも読めた。
 しかしこの『スプートニクの恋人』では失踪する若い女性について若い男性
も大人の女性も深く傷つきはするものの積極的に動こうとはしない。若い女性
の失踪を受け止め、そしてそのことを理解しようとする。

 『スプートニクの恋人』のスプートニクとはソ連の人工衛星のことを指して
いる。物語の中では大人の女性が若い女性の語ること、つまり、小説を書いて
いる、それで好きな作家はケルアック、と言っているのを聞き、ああそれなら
ビートニクね、と言うべきところを勘違いして、スプートニクね、と言った場
面として、このスプートニクと言う言葉が現れる。
 しかし、ソ連の衛星スプートニクとは、人類初の衛星としての一号と、犬を
乗せた、つまり初めて地球上の生物が人類の手により地球外に出された二号が
あると言うことが、この小説をまだ読む前の読者に対してと言うように、扉に
書かれているのである。
 地球を周回し続ける衛星に乗った一匹の犬。犬は無限に周回し続ける一個の
衛星の中で、やはり無限に独りで生き続けている。
 このイメージが冒頭に与えられるのである。

 若い女性と若い男性は平行な軌道を周回し続ける衛星であり、大人の女性も
この二人の軌道に微妙に近づきながらも決して激しくぶつかることのない軌道
を持つ衛星のようだ。

 『ねじまき鳥』では同じ衛星の中にいた同伴者が消えてしまう経験を書いて
いたのだとしたら、こちらは初めから不在なのである。伴走する隣の衛星とし
ての他者。しかしかけがえのないものとしての伴走者。その喪失。

 他者は永遠に理解出来ない。自分の目に映り自分のこころの中に構成される
他者はついに他者そのものになることはない。かと言って、この他者は自分自
身でもない。他者そのものでもなく、自分の延長でもなく、それでも自身の中
に在る他者の姿。決して交わることのない軌道を同じ方向に周回し続ける、隣
あった衛星のような関係としての他者。
 そういうイメージ。

 「「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は
   退屈でさえある孤絶を経験するべきだ。自分がまったくの己れ一
   人の身に依存していることを発見し、しかるのちに自らの真実の
   隠されていた力を知るのだ」

   「そういうのってすてきだと思わない?」と彼女はぼくに言った。
   「毎日山の頂上に立って、ぐるっと360度まわりを見まわして、
   どこの山からも黒い煙が立っていないことを確かめる。一日の仕
   事は、ただそれだけ。あとは好きなだけ本を読み、小説を書く。
   夜になると大きな毛だらけの熊が小屋のまわりをうろうろと徘徊
   する。それこそがまさにわたしの求めている人生なのよ。それに
   比べたら大学の文芸家なんてキュウリのへたみたいなものよ」
    「問題は、誰しもいつかは山から下りて来なくちゃならないこ
   とだ」とぼくは意見を述べた。」
          (村上春樹『スプートニクの恋人』8ページより引用)

 高い山の上で孤高を守り、そこでひたすらに自分の問題に専心する経験の重
要性をケルアックが説いているのだとしたら、若い女性はその経験への憧れを
素直に語り、若い男性は経験からの社会復帰を危惧している。
 しかし、高い山の上に元々住んでいて、そこから下に降りることが決して出
来ないのだとしたら。そういう状況を望んだり忌避したりする以前にすでにそ
ういう世界に住んでいるのだとしたら。

 衛星の小さい窓から見える伴走者たちを目を凝らして視ることしか出来ない
のであるならば。

 そして伴走者たちが深く関わろうとすればするほど軌道は接近しやがて互い
に互いを壊す事態にまで接近するしかないと言うこと。

 大人の女性が観覧車に閉じこめられるエピソードが語られている。衛星の中
の犬、更にケルアックの山頂の哲学者、そして観覧車に閉じこめられている女
性の姿。どれも絶望的なまでに孤独であるが、同時に完全に充足している姿で
もある。

 「象徴と記号の違いについて200字以内に説明する」と言う設問が唐突に
書かれる。少し放っておいた後、物語では若い女性から若い男性への質問と言
う形でそれが蒸し返される。
 象徴は一方通行であり交換は出来ないもの、記号は相互通行であり交換可能
なもの、と言うように説明される。

 象徴と言うのはつまりあるモノを以て他のモノを指し示すことだ。記号もま
たあるモノを以て他のモノを指し示している。けれど象徴としてのモノと記号
としてのモノは似て非なるものである。象徴としてのモノには実体があるけれ
ど、記号には実体はない。実体のあるものは互いに交換することは出来ないが、
実体のないものがからめばそれは交換が可能と言うことになる。
 作中で語られている交換の可能性と言うのはそういうことではないだろうか。

 ああ、頭が悪い。

 個人の内面をひたすらに掘っていく物語において他者は自己と交換が可能な
記号としての意味しか持てず、しかし、他者との関係の物語においては他者は
記号ではなく、実体を持った存在となる。それは衛星の中にいたはずの同伴者
が突然消えると言う記号の喪失ではなく、伴走していた衛星の軌道がずれてい
くと言うような。

 本当に頭が悪い。

 では大人の女性が観覧車の中での一夜を過ごした後に分離したことはどう解
釈するのか。彼女は観覧車の中から自分のアパートを覗くのであるが、そこに
もう一人の自分を見る。それを見たことにより彼女はこの世界に最終的に留ま
ることが出来たのだとも解釈出来るのだけれど。
 では衛星の中から、あるいは山頂から、観覧車の中から抜けだしていったも
のは一体何だったのか。あるいは残ったものは何だったのか。

 記号ではない私やあなたがこの世界で実体を伴って生きる方法。そういう方
法はいくらでもあるように思えるし、そうはないようにも思える。実体として
生きるのがついに孤独でありそれが辛くて仕方がないのだとしたら、やはりそ
れでも孤独な実体として生きていくしかないのだよ、と。
 でもみんなそうやって生きている。
 多分。

 交換不可能な還元不可能な自分や他者と言う孤独な実体。それは衛星の中に
いる一匹の犬のようでもあるし、山頂で賢いことを考える独善者のようでもあ
るし、あるいは観覧車の中で実体から抜け出てしまったものをただ眺めるしか
ないもののようでもある。

 言うまでもなく小説に解釈なんか存在しない。安易な解釈は小説の可能性を
殺すだけだ。では小説に対してどのような態度を取れば良いのか。書かれてい
る小説自体を読むことにより、生きれば良いのである。読んだ結果が混沌であ
るならばその混沌を生きれば良い。
 そうやって小説の中を生きることによって見えるものもあるし、また何も見
えなくても構わない。
 読書はその小説の中を生きることが一番大事なんだ。

 苦し紛れか。

 ともあれ村上春樹は『アンダーグラウンド』以降、確かに変わっているよう
に思える。元々どう変わったかを知りたくて読んだのだけれど、それはもうど
うでも良いや。ともかく変わったと言うことで十分だ。
 そして一番変わるべき自分なのだと言うことを知る。





martes, 24 de febrero de 2009

Sputnik, mi amor

Sr. Lobo escogió la próxima lectura: Sputnik, mi amor de Haruki Murakami.

Perdidos en la inmensa metrópoli de Tokio, tres personas se buscan desesperadamente intentando romper el eterno viaje circular de la soledad; un viaje parecido al del satélite ruso Sputnik, donde la perra Laika giraba alrededor de la Tierra y dirigía su atónita mirada hacia el espacio infinito. El narrador, un joven profesor de primaria, está enamorado de Sumire, a quien conoció en la universidad. Pero Sumire tiene una única obsesión: ser novelista; además se considera la última rebelde, viste como un muchacho, fuma como un carretero y rechaza toda convención moral. Un buen día, Sumire conoce a My - en una boda, una mujer casada de mediana edad tan hermosa como enigmática, y se enamora apasionadamente de ella. My - contrata a Sumire como secretaria y juntas emprenden un viaje de negocios por Europa que tendrá un enigmático final.


© Foto: Joan Fontcuberta, Sputnik (1996)

sábado, 21 de febrero de 2009

Sidra & Charing Night

Noche de La Sartén littéraire para reunirnos y hablar primero de Príncipes de Maine, reyes de Nueva Inglaterra de John Irving (en Getafe, tierra de frío polar, las celebraciones no lo permitieron…) y en segundo lugar de 84 Charing Cross Road de Helen Hanff.

(Se ve en la foto: el vino tinto, las crackers, el pastel de salmón. No se ven: las madalenas caseras, el queso en aceite, la tarta tatin, las tortillas, los hot dogs. Todo rico, ¡muy rico!)


Príncipes de Maine... gustó en general, sobre todo ese mundo de Saint Cloud's hecho a medida del Dr. Larch, con sus fieles enfermeras Elda y Ángela, los niños creciendo y por colocar, la potente Melony, el pansinsal de Homer, las lecturas de Charles Dickens y Charlotte Brontë, las jóvenes embarazadas apeándose del tren camino del orfanato… No gustó tanto en cambio el mundo de Vista al Mar con ese triangulo amoroso entre Homer, Candy y Wally, pero sí la vida en la casa de la sidra y sus normas, que en realidad eran las del Sr. Rose, de quien se apuntó que podría considerarse con el Dr. Larch el segundo gran protagonista de la novela ¡Menudos personajes tiene esta novela! Se reconoció que además estaba muy bien escrita, aunque Irving es tan descriptivo que con tanto detalle podía llegar a cansar al lector que prefiera ponerse a imaginar un poco más. Con mayoría femenina en La Sartén, era casi lógico que la conversación derivara al final hacia qué se siente durante las visitas al ginecólogo, noble oficio rebautizado (entrada ya la noche y con unas copitas…) como el trabajador del chocho… que finura en La Sartén!

Irving, John. Príncipes de Maine, reyes de Nueva Inglaterra. Barcelona: Tusquets, 1996. (Fábula). 626 pág. ISBN: 84-7223-937-3. 10,52 €.

(Sidra el Gaitero (famosa en Asturias, Nueva Inglaterra y en el mundo entero) y compota de manzana!)


84, Charing... un libro muy emotivo, con una historia de amistad transoceánica preciosa que nos caló. Transmite muy bien el placer de encontrar en el mundo a gente maravillosa. Compartir la pasión por los libros y mucho más. Por cierto, ¡Qué libros! Un nivel alto altísimo el de la Hanff, y al que sólo encontramos una explicación: ¡la literatura inglesa era sin duda SU TEMA! Muy culta y además todo carácter y humor ácido la señora, así que a unos tanta excentricidad no les gustó nada y a otros les cayó la mar de simpática, como suele pasar con estas personalidades fuertes. Disfrutamos con agrado el sutil retrato de una época en tiempos difíciles (precioso nos pareció el envío de paquetes con alimentos y la gratitud correspondida con joyas del calibre de un mantel de hilo irlandés bordado a mano…), con Londres visto des de Nueva York como ese paraíso de la cultura del viejo continente y reconstruyéndose tras el paso por la Segunda Guerra Mundial. Un libro corto que no se hizo corto porque sus apenas cien páginas nos parecieron la medida justa para la bonita historia que se teje entre las cartas de Helen y Doel.

Hanff, Helene. 84, Charing Cross Road. Traducción de Javier Calzada. Barcelona: Anagrama, 2002. (Panorama de narrativas ; 522). 128 pág. ISBN 978-84-339-6982-8.

(Las notas (a ordenador, ¡qué repelente!) para no dejarse nada en el tintero!)

sábado, 14 de febrero de 2009

Corazón de sartén

Sí, ¡es hoy! La Sartén Littéraire se reúne de nuevo… ¡por fín!
La comunidad de incansables elucubradores vuelve a la carga…

martes, 3 de febrero de 2009

Las aventuras de Ellery Queen

14 East 95th St.
15 septiembre 1951

… No me lo tomes a mal, pero de verdad me gustaría saber qué has hecho TÚ en la vida para que el buen Dios TE permita rebuscar libros en mi librería mientras me tiene a mí atrapada en la calle 95, escribiendo para la tele “Las aventuras de Ellery Queen”…
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[Pág. 49]



Ellery Queen es el seudónimo de dos primos estadounidenses, de origen judío, Frederick Dannay (nacido Daniel Nathan, New York, 20 de octubre de 1905 – 3 de septiembre de 1982) y Manfred Bennington Lee (nacido Manford (Emanuel) Lepofsky, New York, 11 de enero de 1905 – 3 de abril de 1971), escritores de literatura policíaca y creadores del personaje que lleva el mismo nombre que su seudónimo, con una amplia producción personal entre 1929 y 1970, y muchas otras obras escritas bajo su patrocinio y autorización usando el mismo seudónimo.

Las novelas de Ellery fueron adaptadas también para la radio y para la televisión. Entre 1939 y 1948, las tres principales cadenas de Estados Unidos transmitieron el programa radiofónico “The adventures Of Ellery Queen”; en los años cincuenta primero la “DuMont Televisión” y luego la “ABC” transmitieron la versión televisiva de dichas aventuras, con varios actores en el papel protagonista: Lee Hart, reemplazado a su muerte por Lee Bowman, luego Hugh Marlowe, George Nader y finalmente Lee Phillips. En 1971, una película para televisión fue protagonizada asimismo por Peter Lawford, y más tarde (1975-76) fue la serie “Ellery Queen” con Jim Hutton en el papel protagonista y David Wayne como el inspector Richard Queen. (1)

(1)Fuente: Wikipedia
Fotos: Ellery Queen por Johan Blixt
Más información: Ellery Queen (Página web americana)